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この門は4小門の一つですが、4大門のような役目をしました。北のスッジョン(肅靖)門がいつも閉まっているのでハムギョンド(咸境道)など北方へ通じるギョンウォン街道(京元街道)の関門の役目をしました。朝鮮王朝がハニャン(漢陽)に遷都した後、太祖5年(1396)にソウル城郭を築造して成文を出す時にヘェファ門はホンファムン(弘化門)と言う名称としてたてられました。しかし都城の東に位置していることから東小門と呼ばれましたが、朝鮮時代初め、成宗 14年(1483)に昌慶宮を新たに建立して東門をホンファ門とすると東小門と紛らわしいため中宗6年(1511)に東小門の名前をヘェファ門に変えました。 |
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| 一方朝鮮時代初めには北方の女真族使臣の宿所として東大門そば(今の梨花女子大附属病院の位置)に北平館がありました。使臣がソウルに出入りする時は必ずこの門を利用するようにしたので、規模の大きい門樓があって威厳を誇っていました。しかし丙子胡乱以降女真族が立てた清国の使臣の出入りが、明の国の使臣が出入りしていた西大門へと変わってからヘェファ門の管理は疎かになり、門樓がくずれ虹霓となった石門だけが残りました。その後、英祖は英祖20年(1744)にオヨンチョン(御營廳)に命じて崩れた門楼を復元し、当時の名筆であったジョ・ガンイ(趙江履)により『惠化門』と書いた扁額を新しくかけました。この門の門楼の天井は鳳凰が鮮やかな色で描かれているのが特徴です。その理由は門の外、つまり今のドンソムン(東小門)洞、サムソン(三仙)洞、ドンソン(東仙)洞一帯に雀などが多く農作物の被害が大きかったので、鳥たちの被害を阻むために鳥の王である鳳凰を描いたということです。 |
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