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朝鮮太祖の後妻である神德王后康氏の御陵
 
image 初め御陵地として決めた所はアナム洞でしたが、山役を始める時水が湧き出て、現在中区ジョン洞の徳寿宮北西の方に御陵を造成しました。神德王后はファンへド(黄海道)谷山部のカン・ユンソン(康允成、判三司事贈象山府院君)の娘でイ・ソンゲ(李成桂)と出会い2男 1女を生み、太祖元年(1392)に現妃となり、太祖7年(1398)8月13日判內侍府事であるイ・ドゥッブン(李得芬)の家で崩御しました。
愛していた 神德王后が世を去ると、太祖はあまりに傷心して悲しみ陵地を自ら訪れました。
太祖は功臣たちの主張どおり王妃を高める意味で功臣守陵制を採用し、御陵の地域を皇華坊 北原、(現ジョンドン)に造営しました。その東方には貞陵の願刹として 170年余りの間興天寺を建てた後よく行幸し、景福宮で貞陵の朝鳴る興天寺の鐘の音を聞いてから食事をされました。この興天寺の鐘は後日鐘樓につるされ、ソウル内の時刻を知らせたりもし、現在は徳寿宮に移されています。しかし貞陵は太宗が即位してから冷遇されるようになりました。
 

これは朝鮮建国後イ・バンウォン(太宗)が建国功臣として王位を受け継ごうとした際に神徳王后が実子であるバンソクを王子にしたので憎悪するようになったのです。神徳王后が崩御してから2年後に 『王子の乱』を起こしたイ・バンウォンは異母兄弟であるバンボンとバンソクを殺し、彼の兄であるバンガンに勝って王位に上がると、貞陵を目の上のこぶと考えました。
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