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宣懿王后 魚氏の御陵
懿陵は朝鮮後期景宗と彼の後妻である宣懿王后魚氏の御陵です。ウィルングが位置した所はチョンジャン(天臧)山の下にあり、昔の地名はジュンリャンポ(中梁浦)です。
 
seongbukdong image 景宗は肅宗の長男で、ジャン・ヒビン(張禧嬪)としてよく知られた玉山府大嬪張氏の実子で、名前はユン(昀)、号はフィソ(輝瑞)です。肅宗14年(1688)に生まれて三歳の時皇太子の位が与えられ、肅宗43年(1717)8月に聴政の代理をつとめ、3年後に肅宗が崩御すると慶熙宮で即位しました。
 
景宗の最初の王妃は端懿王后沈氏でしたが、王太子妃の時世を去ったため東丘陵のヒェルン(恵陵)に安葬されました。引き継き景宗の後妻である宣懿王后魚氏は咸原府院君オ・ユグ(魚有亀)の娘で、15歳の時王太子妃になりました。景宗の即位と共に王妃としての地位が与えられ、温柔な性格を持って全ての事に熟練していましたが、英祖6年(1730)に26歳で崩御しました。 seongbukdong image
 
景宗は病弱で在位4年にして崩御しましたが、記録によれば全てジャン・ヒビン(張禧嬪)が毒を飲んで処刑された後から病気になったといわれます。景宗は性格が温柔で、子供がなく病気がちで異母兄弟であるヨニン君(後の英祖)が皇太子となりました。

4年間の景宗在位期間中には集権勢力だったソロン(少論)がヨニン君の代理聴政を推進したノロン(老論) 勢力を粛清した景宗元年(1720)の辛丑獄事と景宗2年(1722)の壬寅獄事などの二度の獄事(いわゆる辛壬士禍)が起きました。景宗は在位期間中西洋の手銃器(消火器)を真似て製作し、3南地方の量田の請願を是正するようにしました。